パニック速報

The next stage is paradise…

うつ病になってパン一枚も食べられなくなった話

どうも。

最近毎日パニ速を書いているが、これは就活の空き時間が暇だからである。

ケータイのゲームも飽きる。かと言ってこれ以上エントリーシートも書きたくない。

そんな中、パニ速を書いていると時間が一瞬で過ぎて行くことに気づいた。

そもそも僕は文章を書くことが好きなのかもしれない。

そんなこんなで、今回も若者(23歳)の戯言を書いていくこととする。

なお、今回も題名だけはインパクトがあるが、中身は薄っぺらいことは承知して呼んで欲しい。

本題に入ろう。

今回は私の大学生の思い出書き残しプロジェクト第一弾

鬱病になってパン一枚も食べられなくなった話

をしようかと思う。

そもそも僕は鬱病なんて縁もないと思っていた。

鬱病はメンヘラの女か妊娠中の女、または暇を持て余している女がなるもんだと思っていた。

しかし突如私にも鬱病になる出来事が訪れた。

これは大学四年生での研究室での話である。

私は皆さんがご周知の通り、【真面目】である。

それゆえ、厳しい世界に身を置いて成長したいと思っていた。

そう考えた末、私(当時21歳)は博士課程後期の先輩(当時25歳)について研究を行うことにした。

これが地獄の始まりだった。

2018年4月

研究生活が始まる。

最初は設計ソフトの使い方や装置の使い方を細かく教えてもらった。

...週7で。

しかも10:00-19:00

初めは先輩から

『毎日は来なくていいよ、週3とかでも構わん』

と言われていたのだが、いざ1日休むと

『昨日なんで休んだん??』

『あかんなあ、ちゃんとせんと』

というお言葉を頂戴することになる。

その先輩は、1ヶ月に1日休めば休みが多い方で、常に研究室にいるストイックな方だった。

それゆえ私にも高いレベルで研究にストイックさを求めるのであった。

2018年5月

私はゴールデンウィークで4日ほど休んでしまう。

ここから先輩の私に対する圧力が変わりはじめた。

『なんで4日も休んだ??やる気はあるのか』

『お前が何をしようというつもりなのか分からないから、ワードで今後の予定を書いてこい』

と言われた。

しょうがないので、家で卒論執筆までの予定を書き、次の日朝イチで持っていった。

内容は

○月 論文を読んで研究テーマを決定

○月 装置を設計

○月 装置組み立て

○月 研究開始、データ取り

○月 応用物理学会に出る

みたいな単純なものだったと思う。

ただ、その単純なものでも研究を全くしたことのない私は書くのが大変で、

ネットで調べながら書いた覚えがある。

これを持っていくとすこぶる怒られた。

『なんでこんなしょうもないものを持ってくるんだ』

『こんなんじゃダメだ』

私の心は徐々に傷ついていった。

一番キツかったのは、大声でみんなの前で私のことを怒ることだ。

次第に私はかわいそうな目で見られるようになり同情されていくこととなった。

2018年6月

ついに休みがちになる。

とにかく週7で先輩から毎日罵声を浴びせられると落ち着く間もなく精神が衰えていく。

そのまま学校に行くことが怖くなり、6月は3日しか学校に行かなかった。

その代わり、大学院試験の勉強と塾の営業のアルバイトに打ち込んだ。

のちに塾の営業のアルバイトも私の精神を追い込んでいくのだが...(また別の記事で話そうと思う)

この頃彼女はいなかったため、一人で耐えぬいて生活したことを鮮明に覚えている。

2018年7月

大学院の試験が終わる。

アルバイトに週6で打ち込む。

研究のことを考えたくなかったので、この頃はアルバイトがあって本当に良かったと思う。

アルバイトがなければもっと追い込まれていたはずだ。

2018年8.9月

アルバイトに励む。

2018年10月

地獄の始まり。

アルバイトが扶養の関係(103万)で出来なくなる。

アルバイトがないせいで、どうしても考え事をしてしまう時間ができる。

考えたことは、

『このまま研究室に行かなければ卒業できない』

『でも、研究室に行けばフルボッコにされる、ましてや4ヶ月行ってないのだからもはや人間として見てくれないだろう』

この2点のループ。

遊ぶ気力もなくなりベッドで寝たきり生活となった。

1日の食事は食パン一枚。

(焼かないしマーガリンもつけない)

洗濯物もせずに毎日同じ服。

夜23時に起きて昼12時に寝る生活。

その間YouTubeを見てオナニーをして水道水を飲むだけ。

風呂はたまに入ったが、風呂掃除もしてなくて風呂自体が汚くなっていた。

この生活を1ヶ月程度繰り返したであろうか。

ここが私の一番の底辺だったのは間違いない。

死んでもいいと思っていた。

ただ死ぬ勇気はなかった。

2018年11月

ついに変化が訪れる。

先輩からラインが入ったのだ。

『卒論の目次を提出すること。忙しいので今週末までに。』

このラインに私は震えた。

とにかく先輩が怖いので、ラインの通知が来た時点で布団にうずくまるくらいだった。

しかし、ここで目次を提出しないと留年という道が出てくる。

なんとしてでも学校に行かなければならなかった。

学校に行くのは怖かったが、ここで私はこう考えることにした。

『死ぬよりはマシだ』

これは魔法の言葉である。

死ぬくらいならいくら怒られようがいくら罵られようが関係ない。

この頃には私は研究室内で

奴隷2

と呼ばれていたそうだが(ほかに奴隷1と奴隷3がいたが、どちらもボコボコにされていた)

そんなことを言われたとて死ぬわけではないのだから耐えて耐えぬいた。

罵られながら無事に卒論の目次を完成させ、ここからまた研究室に通う生活が始まる。

2018年12月

奴隷生活の始まりだ。

私の卒論のテーマは真空を使った薄膜の生成だった。

常に目の前に人がいないといけないという地獄の装置を取り扱った。

これは奴隷の役目だ。

僕は遅番で

昼の15:00から深夜の4:00までその役目を請け負った。

2週間ほどこの生活をしたが、死ぬわけではないのでなんとか耐えた。

2018年1月

正月休みはお酒を飲みまくって現実逃避をした。

一月下旬、ついに研究が一段落する。

あとは卒論を書くだけだった。

2018年2月

卒論が無事完成。

私は解放された気分だった。

この瞬間が人生で一番幸せを感じたかもしれない。

セックス、オナニーよりも幸せに感じた。

それくらい一年がしんどかった。

この一年を終え、私は他の研究室に移った。

今は悠々自適な生活を送っている。

これは後から聞いた情報だが、このとんでもない出来事があった次の年、

噂が飛び回り、その研究室には誰も入らなかったようだ。

感想

この一年は何も面白いことがない一年だったが、この経験があったからこそ今は何があっても耐え抜ける自信がある。

今は就活だが、面接では全く緊張しない。

圧迫面接があったとしても全く圧迫面接だと感じない。

こう思えるのはこの経験があったからこそである。

以上、こんなに長い文を読んでくれた方がもしいらっしゃるのであれば、本当に感謝申し上げたい。